昭和54年09月30日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげは我家で受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参ってくることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 ここへは信心の稽古をしに来る。まめな時に参って信心の稽古をしておけと、そう言う信心が出来たら確かに、いつどう言う事があっても驚く事もなからなければあわてる事もない。成程おかげは我家で受けよと言うおかげも受けられると思うですよね。所がここへ参って信心の稽古をしておけと言われるのに、信心の稽古には通わずにただ頼み事があるから参っておる、壮健な時信心の稽古をしておけと。壮健な時何でもない時平穏無事な時にこそ、いよいよここへ参って信心の稽古をしておかなければならんのにね。
 何か特別な事が起こったりすると、してくると朝参りでも始めようかと言った様な事になると。言うならば主客転倒と言う事がここでは教えてあると思うんです。またそう言うふうに頂かなければいけないと思うんです。はぁ成程金光様の信心は、成程子供がおったりするなら、そうそうにお参りは出来ない。また日傭取りのような仕事をしておる人達はそんなにお参りをしなくってもと、言うような事が中にその中にありますから、そこんところだけを頂いてね。忙しか時には参らんでよかばいなとね。
 自分な毎日勤めに出ておるから、日曜日どん参ればよかばいのと言った様な安易な所だけを頂こうとする。そのやっぱ傾向がございます。けれどもこれはそうじゃない一番始めにもうのっけから言っておられる。ここには信心の稽古をしに来る所だと。そして壮健な時とこう言っておられる事は、何でもない時特別の頼み事と言うのがないごたる時に参って、しっかり信心の稽古をしておけと仰る。でなからな稽古は出来ませんよね。
 片一方に苦しい事がいっぱい頭の中にあって、なかなかただお願いはするだけ、どうぞどうぞと言ってお願いするだけになってしまうんです。だから本気で信心の稽古をさせて頂くと言う事になると。何をおいても稽古の喜び稽古の楽しさが分かって来る様になり、言うならば一段一段信心も進んでいく事にになり、力も受けていく事になり、これがお徳と言う事であろうかと言う風になってくるんです。
 だからそのう安易な表現の所だけを頂くと。まそんなに日参りなんかせんでもよかろようにあるのが。この御理解ですけれども、その後先の事を分からしてもらうと。そうではないなと、本気でやはり信心の稽古をしとかなければ、成程教祖様が仰るように、壮健な時平穏無事の時にしっかり参ってね。一遍参りは二遍参りでもさしてもろうて信心の稽古をしとかなきゃいけんとこう言うわけです。
 私は今朝から御神前で『天保元年』と言う事を頂いた。天保ねどう言う事だろうかと思ったら、私の大坪と言うこの字に大と言う字に上にちょっとこう横棒を引くところを頂いた。大と言う字ですね。大と言う字を書いて上に棒を引いて、どう言う字になりますか。天と言う字になるでしょうが。大の字に上をこう横を引きますとね。坪と言う字は土遍が大きく書いて平たいと言う字の、それこそ平たくこう書いて見せて頂いた。
 だからこれは私は天の心地の心、言うならば天の心天の信心、地の信心いわゆる土の信心とここでは言われますですね。土遍ですからね。ひらたくと言う事は、もう大地に平伏してと言う様な意味を感じました。大地に平伏したような信心。私共はその大地に平伏したような土の信心、もうこれにお道の信心は極まったと言うて。私共はそこに焦点を置いて合楽の方達は稽古をして参りました。それがどう言う事になってきたかと言うと、いよいよ成行を大切にすると言う様な事。
 または黙って治める。もう土の性根、土の心を自分の心に頂こうと言う様な稽古を一生懸命してまいりましたが。だからそう言う稽古でもね。そう言う稽古をする。実際に稽古をしてみるとね。もう簡単なごたるでしょうね。土の信心もう黙って受けさえすりゃよいと。ところが実際問題に直面して来るとね。ここは黙っておくべきかここは言うのが本当かと言った様な事に直面するんです。
 ですから御理解を頂かなければ広う深う分からんです。そこに言うならば稽古また同時にそうして稽古さして頂いておると、言うならば仕事が仕事を教えてくれるように、自ずと道がついてくる信心の道が段々に分かってくる。自分で翻然として分からしてもらえるようなおかげも頂かれる。そのヒントを頂かなきゃならんね。そこに言うなら壮健な時参って信心の稽古をしておけ、おかげで土の信心はこうして段々出けるようになった。出けた。そしてまたその土の信心の素晴らしい事も分かってきた。
 最近ではそれが、言うならば天の信心と天の心を心とする生き方を、これに頂いていかなければと言うのですから。今は皆さんがその天の心へと言うところへ焦点を置いて様々なその願目に向かって進んで行かなきゃならんとこうね。まぁ繰り返し言われますように天の心とはね。限りない麗しい心だとこうある。天の心と言うのは無条件。もう与えて与えて止まない心だとありますなかなか難しい。けれどもね本気で土の信心の稽古が出来て黙って治める。
 成行きを大事にすると言ったような信心が徹底して出来ておると、もうそうだと気付かせて頂いた時点から天の心の素晴らしいさと言う事を、もうまた身をもって頂かなければならないと言う、スウッと入っていけれるんですけれどもね。土の信心が出けておらんとなかなか難しいです。なかなか美しい心になれないです。限りなくもうとにかくいかにも立派な信心しよるごたるけれども。それには条件がいっぱいついてとる。自分の顔と言ったような事がいつもいっぱいある。
 限りないいわゆる自分と言う者を空しうする、と言う様な生き方が天の心にはいるんです。自分と言うものを空しうしなければ、限りない美しい心は生まれてきません。それに最近では天の心とは、いさぎよいと言う心だと言われております。今合楽で一番求められるのは天の信心です。ためには一足飛びには出来ませんから、本気で土の信心を日々の信心修行とさしてもろうてです。そしてその土の信心がこんなにも素晴らしいもの、こんなにも楽しいもの、もう本当に黙って治められる事の素晴らしい事。
 もうそれこそもう何と言うでしょうか。自分の顔を立てなん為にも言い訳こわけをしてねもの言う。黙って治める段じゃない。かえって雄弁になったり多弁になったりする。それではね土の信心の味わいと言うものは頂けんです。土の信心の味わい。ここへ参って信心の稽古をさしてもらう。先ずここへ参って信心の稽古をさしてもらうと言う事を、土の信心に焦点を置かしてもらう。そして徹底さしてもらう。壮健な時信心の稽古をしておけとおっしゃるね。 
 その何でもない時に、本気で土の信心を身に付けさして貰うて。黙って治めると言う事の成行きを尊び大事にすると言う事が、こんなにも有り難いおかげが受けられる。また心の状態もこんなに豊かになるんだと言う事が分かる。そこにです言うなら天の信心限りない美しい心とはどう言う事だろう。本当に無条件になると言う事は難しいと思うておったがさにあらず。無条件にしなければ却って信心を進めにくい。これだけの信心しますから、これだけのおかげ下さいと言った様なもんじゃ条件があるから難しい。
 そしてこれ程信心するのにと言う事になってくる。無条件です。もうおかげはあなたにお任せしてあると言うて、日々痛ければ痛い痒ければ痒いでお取次を頂くのですけれども、お取次を頂いたらもう親先生任せと言う気持ちで、帰りがけにはもう言うならお取次を頂いて帰る。お取次を願うたお取次を願うたら帰りにはもうお取次を頂いて帰る。教えを頂いて帰る。願っちゃならんぢゃないです。願いは一杯あるのだから、だからお取次を頂いてお願いをしたならば、帰りには今度はお取次をね頂いて帰る。
 言うなら御理解を頂いて帰る、信心を頂いて帰る。そして今日はこれで生活の言うなら現場でその教えを、行じさせてもらうと言う様な生き方になってまいりますと。習うた事を一遍、う家に帰ってやってみますとね。ぎこちないですやはり。それでまたあくる日、もう一遍そこんところをやり直してみると段々分かってくるんです。何故かってそこにです、言わば習うた事以外の信心が生みなされてくる。はぁ土の信心とはこう言うと。天の信心とはと言うふうに分かってくるね。
 大坪と言う言うならばあのう大の字に、言うならば横棒をちょっと引かしてもらう。それが言うなら天の心になる。限りない言うならば汚なぁい心。これはもう本当にね。信心が進んでいくと言う事はもう本当に一分一厘ずつですよ。そげん一遍にポンと分かったならほんなもんじゃないです。今まであのうここでは敬親会の時に、昨日は生誕祭でしたからね。お年寄りの方に対するあのう福引きがあっとりましたが。そりゃもうここのお下がりをいっぱい出しますから沢山出来ます。
 いつもあの福引きをする時に見げ行ってから、それこれはちったよすぎりゃせんの半分にしとったらどうの、と言うような事を言うておった時分に気が付かせて頂いてから。昨日はもう全然今度のから私はタッチしませんでしたから、只あの一番最後に何かあの色紙を一枚書いて、それも景品にしたいからと言うて。それをあの書いてあげただけでしたけども。それでこう言うふうな景品にこんなふうにしとるとこう言うから。
 そりゃあ例えば缶詰二っち言うごたるとは、もうあんまりお小分のごたるけん、男の方ならビ-ルなっとんつけてやんなさい。女の子ならばジュ-スなっとつけてやりなさいと言うてやった事でしたけれどもね。今までは反対でした。そりゃ半分にしてようはなかのと。それはただそれだけの事ですけれども自分の心の中にね。言うならば自分で自分の心が拝みたいと言う様な心の時はそう言う時です。自分で感じる時です。自分で自分の心を拝みたいと言う心が私は天の心だと思うです。
 それがしかもいよいよ垢抜けをしてくる。小よりも大と言うふうにその心が大きく育っていく。今日から私の信心のそのいわゆる天保元年と言う事がです。これはどう言う風に頂くかと言うと、神様が私を保証して下さる範囲が少し広くなったと言う感じが致します。まぁ例えて言うならば、今までは九州中の圏内であったのがね。本州の言うならば日本国中のと言う様に、そのおかげの範囲が広うなって来た。神様が保証して下さる、保っておって下さる。
 今日からそう言う様な事を、がここの信心の一つの変わり目と言うようなものがある。いよいよその為には、いよいよ言わば坪の信心いよいよ大きな土の信心。しかもそれに大地に平伏したような謙虚な信心がなされなければならない。同時に勿論大の字にいつも横棒を引かせて頂く気持ちで、天の心の言うならばいさぎよい信心。そのいさぎよい信心限りなく美しうならせて頂く豊かにならせて頂く。それをしかも無条件これが天の心だと言われるのですからね。そこに焦点を置いて信心の稽古をさして頂く。
 ここには信心の稽古に来るところ。土の信心が出来てない人は、本気で土の信心の素晴らしいさを分からしてもらう。そして次に天の信心の無条件美わしい心、いさぎよい心と言った様な心に取り組んで、土の信心の向こうには天の信心がある。その天地足ろうたおかげを頂いてね。それこそ天地が一つになって喜び合う合楽の世界がある。それこそ鶴亀が舞い遊ぶような、めでたいおかげにもなろうと言う事でございます。
   どうぞ。